「普通に生きて普通に過ごす毎日は嫌だな。」
- 自分のやりたいことはなんだろう
- 自分とはなんだろう
自分自身、「何かを探すため」にいろいろな経験や人と出会って来ました。
そして見えてきたことが「意味がないんではないか。」ということです。
自分自身は自分なりの結論にたどり着いて
とても楽になったのですが
結論は
「自分探しの旅」は
「自我に集中する行為」なので「答えはなく」
むしろ
「一歩下がったところで考える視点を持つ」ことのほうが
「自分探しの旅よりずっと価値を感じた」
ということについて書いていこうと思います。
あくまで「こんな事言ってる人もいるなー」くらいの
ぼーっとなんとなく流れ着いたくらいの感覚で大丈夫ですからね。
自分探しの旅は意味がないと気づいた話について
「今考えていることは自分ではなく思考パターンに過ぎない」と感じた。
例えば、「辛いことや不安感を感じていること」というのは、
「ただの脳からくる反応なんだな」と感じるようになりました。
意識は自分じゃないという感覚を持っています。
今の自分というのは「親や友達、学校などとの関係の中で作ってきた考え方」なんだと感じています。
例えば、生まれて一ヶ月で「全く違う親のもと」で育てられ
環境も「アメリカという日本と全く環境で育ったなら、
「完全に性格は変わっている可能性がある」
と思います。
「楽しかったことや、トラウマや体験によって強化されたこともとても多い」ですし、
学習によって自分は形成されていきます。
ということは「今考えていることは、深いところで本当の自分なんだと言い切れない。」
今考えている思考自体が「自分と呼べるものではない」と思うようになりました。
不安や恐怖なども、経験からくるものは自分ではないと切り離される。
不安や恐怖と一体となっている時は、感情に支配されてしまいますが、これも反応に過ぎないし本当の自分ではないと感じます。
こういった心の部分を自我「エゴ」と言います。
エゴに意識を向けても良いことなく、むしろ俯瞰的な視点を持ったほうがとても幸せになれると感じています。
例えば、相手から向けられている感情もこちらからの視点では感じれません。
- 相手の立場に立ってみて考えて、自分を見た時に初めて相手の気持ちを感じ取れます。
そういう気持ちを育てていくほうが様々なことに気付けるようになりました。
自分ってなんなんだろう→自分なんてないけど稲盛和夫さんなどは真我があると表現している
- 自分の考えはない、なのでとらわれることはない
という考え方自体が自分にとってはとても救いでしたし、視野が広くなり様々なことが見えるようになりました。
稲盛和夫さんは著書の心などで
「自分の中に真我という部分がある」と表現しています。
むしろこの我を薄めて「真我に目をやって感じている時間」のほうが、
ずっと心が軽くなり、
エゴを薄めていった先に周りの人が送ってくれている愛とか感謝の感覚を感じれる様になり、
そして驚くことに進むべき道も見えてくる
そんな印象を持っています。
稲森さんの心を読んで感じたことです。
思考を落ち着ける座禅・瞑想こそが自分探しの旅ではないかと感じる
具体的には、座禅を組んだりして「思考を落ち着けることがのぞましい」と感じます。
一番出会いたい感情って、「産まれてきてよかった」という感情ではないかなと思ったりしてます。
自分探しの旅の終着点で「産まれてきてよかった」に出会いました。
産まれてきてよかったを感じれることが幸せに生きるまず根本だと個人的には感じています。
最後に:仕事は生きるためにやるものという視点を持ってもいいのではないか
これから何をなすべきかということについても悩むと思います。
仕事に関しては、
「人のためになるので仕事は存在している」と思います。
そうでない仕事は、今後、どんどん淘汰されていくと思います。
なので、やりたいことは何かと言うより、役に立っているかどうかという視点で見ると、
「上手にできる仕事、自分が苦になりにくい仕事こそ、やるべき仕事」という視点をまず持ってみてもいいのかなと感じています。
もちろんそんな中で「心から燃えてやれるものに出会うというのはとても幸せなことだと思います。
まずは心を鎮め、「自分なんてないんだ」という感覚を作ることで逆に楽になりました。
お時間を頂きましたので、ほんの少しでも参考になる部分があると嬉しいです。
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