日本は今、世界が体験したことのないレベルの「少子高齢化」で「段階の世代」が「今から介護な必要な高齢者、そして後期高齢者」になっていきます。
それに伴い、「老老介護や、少ない生産者で年老いた家族を支える」というまれに見る超高齢化社会に突入していきます。
今から急速に突入しようという瞬間が今(2020年)です。
自分自身、現場で重症な認知症の方を介護した経験がありますが、介護はとてもとても大変でした。
政府は外国人労働者の受け入れを行い、なんとかカバーを試みていますが、日本は経済的にも、生産者の数が少なくなってはいます。
「問題ない」という賛否ありますが、国の借金も、ものすごいことになっています。
いびつな構造は、「漠然とした不安感」を増長しがちで、我々20代30代は眼前に来たるべき超高齢化社会を抱え、介護と子供を育てなければならないというプレッシャーから子供を生むことをやめ、最低限自分たちの生活を守ろうと必死です。
「子供を生むことをやめる。」
命に対しての責任感が強く、親を思えばそのような発想も出てくるかもしれません。
だからこそ力強く子供を生んでくれている人たちもいて、両方ともの意見は的を得ています。
「貧困国は子供が多く、国の経済水準が一定数高まることで、出生率が高まらなくなる。」というのも事実みたいですが。
これからは「様々なところで、本当に守りたい命を充分に守りきれず、どうしても限界が来る可能性もある」のかなと感じています。
この記事は、
- 読んでくれた人が少しでも癒やされること
と願う文章です。
結論は
大切な人に「長く健康に生きてほしいと思う気持ち」と同じくらい
大切な人に「長く苦しまないでほしい」と願うことは悪い思いじゃない。
「長く苦しまないでほしい」と願うこと自体、潜在的に「大事な人の最後を早めてほしいと思うことに罪悪感があると思う」のです。
「長く苦しまないでほしい」と願うその気持ちも、当然心からの善意だと思います。
介護されている本人自身「周りに迷惑をかけたくないからはやく逝きたい」という気持ちを抱くことも後ろめたいことでもなくて、不思議なことではないのではないかと思います。
こんな局面だからこそ「欠けたり、失っていく中に美しさを見出す精神」がとても大切なのかなと思っています。
介護が辛くて限界。助けてほしい。まずは心を整理する。(人は落差で苦しむ)
最後の時まで人間性を高く持ち、人生が美しいものであることを誰もが望みます。
「家族がお互いの幸せを思いやっている」なのに失われていくそんなギャップが余計に苦しいものです。
「当たり前にできていたことがどんどんできなくなる。」
あの元気だった家族が、失われていく。
「人は落差で苦しむもの」だと思います。
できていたことができなくなる葛藤。
その姿を見る葛藤。
歌の歌詞にある「この頃涙もろくなった母が庭先で一つ咳をする」みたいな哀愁です。
失っていくものの中に美を見出す精神が日本にあり紹介したいです。
NHKの「美の壺」という番組で、「うるし塗り」が取り上げられていました。
「奈良の東大寺で毎年2月に行われるお水取り」「50年以上使っている漆の茶碗」で食事を取るみたいです。
何十年も使っているとうるしも剥がれ落ちて「うるしの赤と黒のまだら模様」になっている状態になり、その状態を「根来(ねごろ)」と言って、むしろ、「かけてきたものの中に美を見出す」という話がありました。
「長い年月が生み出した偶然の美を愛でる」
そんな自然体の風合いを愛する精神は素晴らしいと思います。
日本に昔から伝わる漆塗りの
「長い年月とともに欠けたり失っていく事自体に美を見出す精神」を落差で苦しむ中で、味わい愛でれたらいいですね。
少子高齢化に突入した日本を世界が見ています。
こんな精神を持つ日本人の精神は素晴らしい。
調和や他を強く重んじる稀有な美しい国民性が、少子高齢化を乗り越えることを願っています。
介護が辛くて限界。助けてほしい。 そうだ、周りの助けを借りよう
身内でベストを尽くしてもどうしようもない。
そんな瞬間はやはり周りに助けを求めるしかないと思います。
声を上げ、助けを求めるすべを身につけていく必要があると思います。
- 家の近くの「市役所の介護保険課」に相談しましょう。
- 本人または家族が申請に行くことができないときは、「地域包括支援センター」などに代行してもらえます。
- 要介護認定有効期間中に心身の状態が著しく変化した場合は「要介護度の区分変更申請」ができます。
精一杯、主張し、声に出して周りに助けを求めることが求められると思います。
心を整理する。自分で自分の命を生きる。
QOL(クオリティオブライフ)という言葉があります。生活の質を問う言葉です。
命をただ延命し、活かすということについて、すべてのニーズを網羅できるものではないのかなと思います。
要介護も5になればかなり制限がかかっています。
自らの意思で、尊厳のある命を生きる。
自分のことをずっと面倒をみてくれた大好きなおばあちゃんは80歳後半となり、平均寿命を越えてくれました。
しかし、最近調子を崩し肺炎となり、長期での入退院を繰り返しています。
おばあちゃんが会話することすらしんどくなっていき、高い水準の医療で延命されています。
本人が治療自体、望んでいるかといえばそうではなさそうです。
「安らかにぽっくりいきたい。」
本人の希望は、もはや孫からのプレゼントでも、家族で旅行に行くことでも、美味しいものを食べることでもありません。
欲しいものは「特にない」と言われます。
大好きだった植物や鉢すら欲しがりません。
「安らかな最後」を望んでいるようです。
おばあちゃんは自分がそんな状況でもまだ、自分の娘達の身を案じています。
実家から離れ、お返しに至る、何のプレゼントもできないままで、自分もまた、目をそらさずにまっすぐにその気持ちを受け入れています。
自分自身も悲しい気持ちになる時に、この「失っていく中に見出す美しさ」を大切にしています。
もちろん100才以上になって「それでもまだ生きたい」と言えるような生命力のある人が自分は大好きです。
生命力は色気かなと個人的に思います。
逆に退廃的な美しさもあると思います。
赤と黒、自然体の風合いを愛でる精神を「欠けていくうるしに見出す」心は素晴らしいと思います。
慢性的な病気になって、高度医療で延命し続けていること
死生観として「どんなことが正しいのか人生の先輩をみて自分に説いています。」
「自分で自分の命を生きる権利」についてもっと考えたいと思います。
自然に生きる中でのターミナルケアについての高い精神性が必要かもしれません。
最後の時を受容していく
今の所、「誰のもとにもやってくる最後の時を迎えることは悲しいことでしょうか。」
キューブラー・ロスという精神科医が、「最後の時を迎えるまでの段階を5段階で表しています。」
- 否認と孤立
- 怒り
- 取り引き
- 抑うつ
- 受容
最終的に生命観や哲学的な世界観を伴って自らの最期を受容していくものだと習いました。
でも肉体的なしんどさからは生きてるうちはのがれようがありません。
もう、考えてもどうしようもねぇ
真面目ないい人であればあるほど完璧を求めて根を詰めてしまうと思います。
考えてもどうしようもないこともあります。
できないことはできない。
ちっぽけな存在というのもまた癒やしを帯びていると思います。
まあいいかとか楽天的な部分も大事で開き直る。
結局、「鈍感力」とでもいうか、「考えない」ということも才能だと言うことだと思います。
とても苦しい状況が変わらない段階で、
「自分でユーモアや余裕を心のなかで作り出せるか。」
「結果がどうであれ自分のできる範囲で精一杯やろう。」
現実は心が作り出すものです。
苦しい局面の中でも「心を先に作ることで自体は好転するのかな」と思います。
まずは心ありきです。
自分の後ろめたさを顕在化させて、燃え尽きているなら、燃え尽きた中にも美を見出すことで、余裕が生まれることを心から願っています。